A級戦犯とは何だ!
一 序にかえて
いわゆるA級戦犯論議の発端と問題点
昭和60年8月15日、中曽根首相は8月15日としては、戦後はじめて靖国神社公式参拝を実施しました
。公式参拝実施に当っては、内閣官房長官の私的諮問機関である「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」からの報告書に基づき、従来まで「憲法上疑義がある」との政府見解を改め「公式参拝は合憲」との内閣法制局の新たな解釈のもと実現に至ったわけです。
しかしながら、日本国の国内問題である靖国神社公式参拝に対し中国外務省から「中国人民の感情を傷つける」とか「靖国神社にA級戦犯が合祀されている」など干渉的抗議がはじまるや、我が国の政府首脳の中に、「中国側が問題にしているのは、戦犯(A級戦犯)の人が祀られている点だ…東條元首相がなぜ祀られるのか」(昭和60年10月28日、政府・与党首脳会議における金丸幹事長)「戦犯が一般戦没者と一緒に祀られていることは私も知らなかった…」(昭和60年10月30日、二階堂副総裁・駐日中国大使との会見)などあまりにも基本的な問題に対する認識不足の発言が続き、さらにその後も、後藤田内閣官房長官が、「A級戦犯合祀が公式参拝継続の障害になる
。」(昭和61年8月19日衆議院内閣委員会)など、暗に靖国神社にA級戦犯合祀の改善を求めるような発言をし、従来、靖国神社公式参拝は憲法問題として捉えられてきたものが、中国からの干渉によって問題の焦点が変わってしまい、靖国神社が“A級戦犯”を祀ったのがあたかも悪いかのような印象を与えることとなったのです。
“論議は、東京裁判論から
サンフランシスコ平和条約第11条に”
A級戦犯合祀問題が取り上げられるや、識者、評論家の問に、いわゆる“戦犯”が生まれた東京裁判(正式名称は、極東国際軍事裁判)に対する論議が盛んになりました。しかしその捉え方については大きな違いはなく、東京裁判は国際法に準拠する形を見せながらこれを極端に歪曲拡大解釈し、敗者に対する勝者の一方的な報復裁判であったとする意見が圧倒的でした。
ところが、東京裁判が不当な裁判であったと認める評論家の中に、「サンフンシスコ平和条約第11条でその判決の理論を受諾しているのだから、東京裁判史観は批判できても、その国際的誓約は無視できない」とする論を展開する者があらわれました
。そして政府首脳の中からも「サンフランシスコ対日平和条約第11条で国と国との関係において裁判を受諾している事実がある」(昭和61年8月19日、衆議院内閣委員会の後藤田内閣官房長官発言)と発言があったり、また、外務大臣経験者である桜内義雄氏なども中国を訪れた際「靖国神社へのA級戦犯合祀は、戦犯を認めたサンフランシスコ平和条約第11条からみて問題である」(昭和60年12月4日)と軽率な発言をするなど、問題は、サンフランシスコ平和条約第11条の解釈をめぐって論議がなされるようになりました。
“多岐にわたる問題点”
前記の通り、A級戦犯の問題は多岐にわたっていますので、特に次の点について正しい理解がされていないと判断を誤まる結果となることに注意したいと思います。

そこで、これらの点について以下解説を加え、この問題の正しい理解促進のための資料に供したいと思います。
最後に、A級戦犯論は、すなわち、東京裁判論といえるわけで、東京裁判について正しい理解がなされれば解決できる問題ですが、今日、このような論議が起こる背景には、A級戦犯論といわゆる“A級戦犯”とされた個人(27名)に対する感情とが錯綜して問題を複雑にしているということがあります
。当然個人に対する感情は十人十色であろうと思いますが、この点は、純粋なA級戦犯論とは別に論ずべきものだということも、理解していただきたい重要な点だと思います。

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二、 ポツダム宣言と東京裁判
“戦犯とは誰が名付けたか”
昭和20年8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾、翌15日には「終戦ノ詔書」がラジオを通して発表され、日本軍は降伏しました。
ポツダム宣言の第10条には、「……吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ……」とあります。我が国政府としても戦争終結を決意した時点で、連合国の法廷で日本人戦犯が裁かれることを予期していたと思われますが、当時はまだナチス・ドイツの戦犯を裁く「国際軍事裁判所条例」
【注@参照】も公表されてはおらず、あのような形で戦争指導者の個人責任までが問われようとは考えられてはいませんでした。
8月30日に連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが神奈川県厚木飛行場に到着
。9月2日に戦艦「ミズーリ」で降伏文書調印式が行われ、それ以後、日本は連合国軍の軍事的管理下に入り、東京に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が置かれました。
GHQの占領目的は、ポツダム宣言を日本に実行させることにありましたが、それを一言で言えば、「日本の軍国主義および軍国的国家主義を根絶し、日本を再び世界(連合国)の平和と安全の脅威にならぬようにする」ことでした
。これらは具体的な形で次々と実行に移されていきましたが、その中で憲法改正、旧指導者の追放(公職追放)とともに占領政策の大きな支柱の一つとなったのが戦争犯罪人の処罰でした。
戦争犯罪人の処罰は、前述したように「ポツダム宣言」に明記された降伏条件の一つですが、第1次世界大戦までの戦争裁判のように、ただ単に捕虜虐待等の戦争法規違反者のみを処罰しただけでは、占領目的である“日本の軍国主義・超国家主義の根絶”にはつながらない、戦争当時の日本政府並びに軍の責任ある立場にあった者をも処罰しなければその目的は達成し得ない、と連合国側は考えました
。要するに、日本の指導者を戦争犯罪入として連合国の法廷に引き出せば、彼らの権威を引きはぐとともに、その権威が基礎を置いていた理念-連合国のいういわゆる軍国主義・超国家主義-を日本国民自ら否定させる効果が期待できると考えたのです。
そして裁判の形をとる以上、連合国が戦争に勝ったのは単に軍事的に優勢であっただけでなく、連合国にこそ“正義”が存在したからだ、ということを日本国民に見せつける効果もあると考えたわけです。
そこでGHQでは、すぐに戦争犯罪人容疑者の選定と逮捕に踏み切るとともに、裁判運営の為の訴訟手続きの策定など戦犯裁判の準備を急ぎ、翌昭和21年1月19日マッカーサー連合国軍最高司令官名で「極東国際軍事裁判所条例」を布告しました。
この条例は、ナチス戦犯を裁いたニュールンベルク裁判【注A参照】のための国際軍事裁判所条例に全面的に依拠しており、戦争犯罪の定義として、次の三つを定めました。
(1)
「平和に対する罪」(共同謀議して、侵略戦争を計画し、準備し、開始し、遂行して世界の平和を撹乱したという罪)
(2)
「通例の戦争犯罪」(戦争の法規および慣例に違反したという罪)
(3)
「人道に対する罪」(非戦闘員に対して加えられた大量殺戮、奴隷的虐待、追放その他の非人道的行為)
そして4月29日、極東国際軍事裁判所の検察局は多数の戦犯容疑者のうちから28名をA級戦争犯罪人として同裁判所に起訴し、5月3日より公判が始まりました。
このA級戦犯を裁いた裁判がいわゆる“東京裁判”です
。判決は、2年後の昭和23年11月12日に下され、7名が死刑、16名が終身禁固刑、2名が禁固刑となりました(大川周明氏は進行麻揮のため免訴、松岡洋右・永野修身の両氏は裁判中病死)。
これらA級戦犯のほかにも、「通例の戦争犯罪」を行ったとされて、内地をはじめ中国・東南アジア・太平洋地域の各地で開かれた連合国各国の軍事裁判で有罪となった人々も多数います
。この人々は“B・C級戦犯”と呼んでA級戦犯と区別されています。B級とは「俘虜虐待行為の監督、命令に当たった者」、C級は「その直接実行者」としていますが、これらは、パリの不戦条約【注B参照】(昭和三年)を不法に拡大解釈するとともに、これまでの国際法の一切の実定法・慣習法にもない、一方的に曲解した法解釈をでっちあげた結果によるものです
。因みに、極東国際軍事裁判所を始め、各地の戦犯法延で裁かれ、「戦犯」として死刑の判決を受けた人の総数は一千名をこえ、そのうち九百余名に死刑が執行されました。
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三、東京裁判は国際法を無視した報復裁判
東京裁判については、先に述べたところですが、そもそも「戦争犯罪人であるか、ないか」は、結局“東京裁判を如何に考えるか”という問題に帰着します
。それでは、はたして東京裁判は、正しい裁判だったのでしょうか。
従来、戦争は国際法の上から見て合法的な手段であると認められていました。クラウゼヴィッツ【注C参照】が有名な『戦争論』の中で「戦争はかたちをかえた政治的手段である。」と主張しているように、戦争は容認され、国家に与えられた基本権だったのです。
ただその中で、戦争の手段・方法は、人道的見地から法的に規制されていました。当時、交戦法規【注D参照】違反として禁じられていたのは、例えば、非戦闘兵の殺傷、非防守都市ないし非軍事目標への攻撃、不必要な残虐兵器の使用、捕虜の虐待であり、戦争自体を計画することや準備すること、実行すること、戦争それ自体は、違法ではなかったのです。つまり、当時考えられていた「戦争犯罪人」とは、交戦法規に違反した者のことで、相手側の交戦国が戦時中にこの者を捕えたときには「戦争犯罪人」として処罰することができたのです。
また、連合国が起訴する際の基礎にした不戦条約には、@国際紛争解決のため戦争に訴えることを不法とし、A一切の紛争を平和的手段により解決すべきこと、が定められ、侵攻戦争を違法化していましたが、自衛のための戦争は禁止していませんでしたし、何が侵攻戦争であり何が自衛戦争であるかも、当事国の解釈に委ねられていました
。そして、たとえ侵攻行為の認定が可能だとしても、その違法行為(国際不法行為)責任は生じますが、犯罪責任は生じ得なかったのです。
このように考えてくると、ポツダム宣言第10条にある「吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人」の中に、東京裁判で訴因として上げられた「平和に対する罪」「人道に対する罪」は、決して当時の国際法上の「戦争犯罪」に含まれるものではなかったことが、はっきりわかります。
インド代表のパール判事は、「復讐の欲望を満たすために、たんに法律的な手続きを踏んだにすぎないようなやり方は、国際正義の観念とはおよそ縁遠い
。こんな儀式化された復讐は、瞬時の満足感を得るだけのものであって究極的には後悔をともなうことは必然である。」として「全員無罪」を主張しましたが、その主張のように、連合国は国際法に準拠する装いをしながら、実際には国際法を無視した違法な報復裁判を実施したわけです。
さらに、東京裁判が国際裁判であるならば当然、戦争の勝者だけでなく敗者と中立国も加えて裁判を構成しなければならないはずですが、東京裁判では、裁判を構成する判事11名が何れも戦勝国で占められ、検事の役割も戦勝国のみで担当されました
。このようなところからも、勝者である連合国が敗者である我が国を一方的に裁いた裁判であったということができます。
さらに重要なことは、この裁判が、法の不遡及の原則(事後法禁止の原則)【注E参照】と罪刑法定主義の原則【注F参照】に違反していることです。
法治国においては、この2つは根本原則となっています
。その原則からいえば、東京裁判の法的根拠となっているポツダム宣言が発せられた昭和20年(1945年)7月26日の時点における戦争、即ち大東亜戦争のみが裁判の対象とならなければならないのに、対象を拡大して昭和6年(1931年)の満州事変以降、大東亜戦争までの一切を対象としています。
昭和58年5月28・29日の両日、東京池袋のサンシャインシティ(元巣鴨拘置所跡)で行なわれた「『東京裁判』国際シンポジウム」【注G参照】の際、西ドイツ・ルール大学学長のクヌート・イプセン博士は、-「平和に対する罪〔侵攻戦争を行った罪〕を裁く東京裁判の管轄権は、その当時有効であった国際法に基づくものではなかった」「裁判所条例は、事後立法を含んでいて、東京裁判自体により“一般的な正義の原則”と認められていた罪刑法定主義とは相いれないものだった」「大多数の国は現在でも、国際法上の犯罪に対する個人責任を認める用意ができていない」と国際法に対する違法性を端的に述べています。
これが、今日の東京裁判理解の常識といえましょう。
以上のように、東京裁判は、国際法準拠を装いながらも、実際はそれを歪曲拡大解釈し、我が国の戦時指導者を戦争犯罪人としたものであり、我が国に対する報復裁判以外の何物でもなかったのです。
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四、A級戦犯論と東條英機論
A級戦犯と東條英機論は混同すべきではない
最近雑誌誌上で、東條英機【注H参照】元首相の評価に関する論文をたびたび見かけます。東條氏に対する評価については、終戦直後より多くの人々によって議論されて来ましたが、その論点は複雑多岐で、当分は合意に達しそうにもありません。

上記に引用したのは雑誌『諸君』昭和62年3月号の読者欄に掲載された投書の一部ですが、これは戦後より今日に至るまで見られる、代表的な反東條論の1つということができます。
ここに引用した一文の是非はともかくとして、このように東條論はとかく東條英機個人に対する感情論となりやすい一面を持っています
。しかし反面、東條英機という人物について肯定的な評価をしている人々の少なくないことも事実です。
さらに東條論の議論を複雑にしているのは、実に多様な論点があることです
。例えば、大東亜戦争開戦時のことから戦時中の種々の政治姿勢や輔弼責任についての問題、あるいは東京裁判中の問題から人物論に至るまで、数え切れない論点があります。
その評価も甚だ多岐なのですが、既に戦争体験者が国民総人口の半数を割っているとはいえ、戦争を知る世代が続く限り、こういった肯定・否定の種々の論が東條論を複雑にしていくことでしょう。
東條英機という人物を正しく評価するには、公正な資料に基づいた、感情にとらわれない、客観的な議論がさらに増えることが望まれます。
靖国神社への“A級戦犯”の合祀が問題になって以来、A級戦犯論と東條英機論の混同が目につきます
。先に引用した一文もこの例に漏れません。
東條英機論を一言でいえば、大東亜戦争開戦時の首相であり、その戦争の大半を指導し、敗戦後戦勝国によりA級戦犯に指名され処刑された東條英機個人に対する是非論ということになるでしょう。
すなわち、A級戦犯論が複数の人格を対象とするのに対し、東條論はあくまでも個人に対する議論であり、両者を混同することはできません
。 もし、A級戦犯論を東條論と同じ姿勢で論じたならば、議論の収拾はつかなくなるでしょう。
連合国によって“A級戦犯”【注H参照】と決めつけられたのは以下の人たちです。
[絞首刑]7名(敬称略、以下同じ)
東條英機
板垣征四郎
土肥原賢二
松井石根
木村兵太郎
武藤章
廣田弘毅
[終身禁錮刑]16名
荒木貞夫
橋本欣五郎
畑俊六
平沼騏一郎
星野直樹
賀屋興宣
木戸幸一
小磯國昭
南次郎
岡敬純
大島浩
佐藤賢了
嶋田繁太郎
白鳥敏夫
鈴木貞一
梅津美治郎
[禁錮刑20年]1名
東郷茂徳
[禁錮刑7年]1名
重光葵
[未決拘留中の死亡者]2名
松岡洋右、永野修身
この他にも、“A級戦犯”として逮捕収監、一度は東京裁判の被告席に座らされながらものちに釈放された大川周明氏【注I参照】や、岸信介氏【注J参照】を始めとする約250名の“A級戦犯”容疑者がいます。eikyuu-chu.html#注J岸信介(きしのぶすけ)
そればかりでなく、処刑者の中にも、釈放後公職に返り咲いた人が何人かいます
。禁錮7年の刑を宣告された重光葵氏はのちに、中曽根前総理や桜内元外相も所属した改進党の総裁となり、鳩山内閣では副総理兼外相として活躍しましたし、終身禁錮刑を宣告された賀屋興宣氏も再び入閣しました
。こうした事実を、靖国神社への“A級戦犯”合祀に反対する人たちは、いったいどう説明するというのでしょうか。
これが、A級戦犯論と東條論を混同すべきでない理由です
。東京裁判において、戦勝国により“A級戦犯”という名称を一方的につけられた少なからざる人たちに対し、その個人個人に対する評価の議論を始めれば、議論はとめどもなく広がって行き、収拾がつかなくなることは間違いありません
。
その意味からも、“A級戦犯”とは何であったかということを正しく認識しておくことが大切です。
「戦争責任」論と「敗戦責任」論
いま1つ、A級戦犯論を議論する場合混同しがちなのは、「敗戦責任」論です。
東京裁判が裁いたのは、我が国の「戦争責任」です
。「戦争責任」とはとりも直さず「開戦責任」ということができます。なぜなら、戦争に勝った連合国が、敗戦国であるわが国の「敗戦責任」を問うわけがなく、また問うたとしても何の意味もないからです
。
整理すれば、東京裁判が裁いた「戦争責任」論が、戦争を「犯罪」又は「道義的悪」として糾弾する戦勝国の立場に立つのに対し、「敗戦責任」論は、敗戦に至った原因を正しく分析していこうとする我が国および国民の立場に立つものです
。
「敗戦責任」論の中には、“A級戦犯”として処刑された25名の方々に対する評価も含まれましょう。また、先に挙げた東條英機論も勿論その中に含まれるといえましよう
。しかし、A級戦犯論を論ずるにあたっては、これもまた立場の違いから混同を避けるべきものなのです。
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五、 東京裁判と講和条約
昭和61年8月19日の衆議院内閣委員会で、後藤田正晴内閣官房長官は、共産党の柴田睦夫氏が東京裁判についての認識をただしたのに対して、「サンフランシスコ平和条約第11条で国と国との関係において裁判を受諾している事実がある」と述べた上で、東京裁判の正当性を認めることが政府の統一見解であるとの考えを表明したと報道されました。
この後藤田内閣官房長官の答弁のように、サンフランシスコ対日平和条約第十一条をもって東京裁判の正当性を肯定し、さらに、東京裁判の判決が今日においてもなお日本政府、延いては、日本国家を強制すると考える風潮があります。
はたしてそうでしょうか。サンフランシスコ対日平和条約第11条【注K参照】の意味を考えながら、この点をあきらかにしていきましょう。
まず、問題の第11条の条文には何が規定されているのでしょうか。
つまり、第11条の条文では、
@. いわゆるA級およびB・C級戦争犯罪人と称せられる人々を裁
いた東京裁判所をはじめとする連合国側の軍事法廷が、日本
人被告に言い渡した刑の執行を、条約締結後には日本政府が
肩代りをすること。
A. 受刑者の赦免・減刑・仮出獄等についての手続。
の2点が定められています。
しかし、このサンフランシスコ対日平和条約第11条には、いくつかの問題点があります
。問題点は、次の2つに大きく別けられます。
1、第11条条文の表記に関する問題点
(1)日本語正文の問題<「裁判」か「判決」か>
2、第11条条文の内容に関する問題点
(1)条文設定に関する問題点
(2)条文解釈に関する問題点
1、第11条条文の表記に関する問題点
条文の表記の問題とは、日本語正文の問題です。条文は、条約調印地であるサンフランシスコ市で、ひとしく正文である英語、フランス語、スペイン語と日本語で書かれていますが、問題点は、日本語正文で「裁判を受諾し」となっている部分です
。本条約の草案を起草した国の言葉(英語)では、この部分は「accepts
the
judgment」となっています。日本語正文で「裁判」と翻訳されている単語「judgment」は、英米の法律用語辞典に照らしてみても「判決」と訳すのが適当のようです
。この条文の大切な部分を「裁判」を受諾すると解するのと、「判決」を受諾すると解するのとでは、条文の意味(内容)が随分変わってきます。
「judgment」を「判決」と課さず、「裁判」と何故訳したのかという問題もありますが、ここでは第11条の日本語正文の翻訳に問題点があるということ、つまり、第11条で日本政府が受諾したのは「裁判」ではなく「判決」であることを指摘したいと思います
。
第11条の条文内容に関する問題について考える前に指摘しておきたい問題があります
。それは、サンフランシスコ対日平和条約を何故「受諾」したのかという問題です。
平和条約は、連合国において起草されました。敗戦国である日本国には「交渉」する権利さえ与えられていませんでした
。つまり、日本には、条約の条文(内容)について口をはさむこと、まして、条文の修正を要求することなどは許されてはおらず、ただ平和条約を「受諾」するか「拒否」するかの二者択一の道しかなかったわけです
。当時の日本の国情を考えますと「受諾」の道しかなかったといえましょう
。この条約の「受諾」が力づくで強制されたという歴史事実を踏まえて、以下問題とする第11条の内容も考えることが必要です。
2、第11条条文の内容に関する問題点
(1)条文設定に関する問題点
第11条を設けた連合国側の目的(意図)はどこにあったのでしようか。国際法では、関係交戦国問の平和状態の回復を基本目的とする平和条約が発効するのが通例とされています。
第1次世界大戦以前までは、交戦諸国が平和条約の中に「交戦法規違反者の責任を免除する規定」、即ち、「アムネスティ条項〔amnesty
Clause〕」と呼ばれる「国際法上の大赦」を設けるのが通例でありましたが、交戦諸国間で慣行とされている事実を踏まえ、かりにそのような規定が設置されなくても、戦犯の放免は戦争終了に伴うものとして国際法上当然とされていました。
このアムネスティ条項について理解すれば、おのずと、第11条を設定した目的がはっきりしてきます。
第11条設定の目的は、講和成立によって独立権を回復した日本政府が、国際法の慣例に従って、東京裁判をはじめあらゆる戦犯裁判の判決の失効を確認した上で、連合国が戦犯として拘禁していた人々-刑死者の場合は致し方ないが-をすべて釈放するに違いないと予想して、そのような事態が起こるのを阻止することだったのです
。つまり、一言でいえば、日本政府による自主的な刑の執行停止を阻止することを目的とした規定であったわけです。
このアムネスティ条項を無視した第11条の設定については、平和条約の草案を検討した昭和26年9月のサンフランシスコ平和会議において、連合国の問でもメキシコやエル・サルバドル、アルゼンチンなどから強力な反対論【注L参照】が出された、と記録されています。
私達は、このような目的で設定された第11条の性格を正しく理解する必要があるといえましょう。
(二)第11条の解釈に関する問題点
冒頭にも述べましたように、第11条をもって東京裁判の正当性を主張する風潮があります。
しかしながら、前述したように第11条では、東京裁判については、日本政府が連合国に代わり刑を執行する責任を負うことについて規定されているに過ぎず、それ以上はなにも規定されていません
。つまり、日本政府の「受諾」の対象は、判決主文(刑の言い渡し)であって、判決理由ではないわけです。
昭和61年の8月24日から30日までの1週問にわたって世界的な学会・国際法協会〔ILA(International Law
Association)〕の大会が、大韓民国の首都ソウルで開催されました。
青山学院大学教授の佐藤和男博士がその大会に参加した際に、外国の当代一流の国際法学者とサンフランシスコ対日平和条約第11条の解釈について話し合ったところ、諸外国の国際法学者は、平和条約第11条について、
第11条は、日本政府による刑の執行の停止を阻止することを狙ったものに過ぎず、講和成立後に日本政府がいつまでも東京裁判の正当性を認め続けるよう義務づけたものではない
。
という共通の見解を表明しました。この法解釈は、今日の国際法学界では、常識とされています。
以上述べてきたように、第11条には東京裁判を正当化する拘束力はまったくありません
。私達はこの点を正しく読みとる必要があります。 なお、平和条約第11条解釈の問題の一つに、中華人民共和国との問題があります
。この点について少し触れておきましょう。
現在、中国からいわゆるA級戦犯合祀問題に対する批判を受けています
。しかしながら、中国がサンフランシスコ対日平和条約第11条に基づいて戦犯問題、延いては、東京裁判について発言する法的資格がないということを述べておきましょう。
中国(もちろん当時は中華民国で、中華人民共和国ではありませんが)は、連合国側で終戦をむかえましたが、サンフランシスコ条約調印には、中国は代表権問題で米英の意見が一致せず会議には招集されませんでした
。
サンフランシスコ対日平和条約第25条では、「この条約に署名し且つこれを批准した」当該国を「連合国」と定義し、「この条約は、ここに定義された連合国の一国でないいずれの国に対しても、いかなる権利、権限又は利益を与えるものではない」と明記しています
。
このような理由で中国(中華民国、したがって中華人民共和国にも)には、平和条約第11条に基づいて発言する法的資格はありません。昭和27年4月28日、サンフランシスコ対日平和条約の発効により、戦争状態は終結され、日本は独立権を回復し、独立国としての道を歩み出しました
。独立を確保した日本国政府が、東京裁判の判決理由中に示されている歴史観-東京裁判史観-を、そのまま受け入れる義務はまったくありません。
東京裁判の判決主文や判決理由に、どのような批判を述べることも自由です
。この自由こそが、講和成立後、多大なる代償を払って回復した、独立国家の実質的意味なのです。
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六、政府とA級戦犯
前章で触れた戦争裁判によって刑を受けた者(一般には戦犯と呼ばれている)に対する当時の国民感情は、決して犯罪者に対するものではなく、寧ろ同情的であったといえます
。その証拠は、日本弁護士連合会の「戦犯の放免勧告に関する意見書」を皮切りに全国各地に広がった戦犯釈放運動でも明らかであり、その署名数も約4千万、国会政府政党への陳情も夥しい数にのぼりました。
やがて、このような一大国民運動が結実し、昭和28年8月3日には「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」【注M参照】が衆議院本会議で決議、関係各国の同意を得て、A級は昭和31年3月31日までに、B・C級は昭和33年5月30日をもって釈放されたのです。
一方、ポツダム宣言受諾後「日本の侵略戦争を助長したもの」として、勅令第68号(恩給法の特例に関する件・昭和21年2月1日)により停止された軍人恩給が、昭和28年ようやく復活されるにあたっても、これら戦争裁判受刑者(戦犯)も一般戦没者同様に取り扱うべきであるとの国民世論が国会でも大きく取り上げられました。
この年、恩給法、戦傷病者戦没者遺族等援護法(以下援護法という)未帰還者留守家族援護法の3法が審議され、戦争裁判受刑者(戦犯)遺族に対する援護措置が講じられるようになりますが、当初の政府案では、戦争裁判受刑者(戦犯)の中でもとりわけ恩給年限に達しないうちに刑死・獄死した者の遺族には、生活保護法以外、何ら保障がなされない内容になっていました。
しかし「これら戦犯者は戦争に際して国策に従って国に忠誠を尽し、たまたま執行した公務のある事項が不幸にして敵の手によってまたは処置によって生命を奪われた方々であります。これらの方々に対しまして、でき得れば恩給法の対象としたいという気持を持っております。恩給法の対象になり得ない場合は、せめてこの援護法の対象と致したいのであります。」(厚生委員会・青柳一郎議員)といった意見が相次ぎ、自由党・改進党・右・左派社会党の全会一致で援護法が修正され、援護法附則第20項【注N参照】によりこれら遺族にも遺族年金や弔慰金が支給されるようになったのです。
この修正論議の中で政府は、当時の国際関係を配慮し、「戦犯を恩給法は勿論、援護法の対象とすることは、政府自ら戦犯刑死者を公務死と認めることになる」と、その対象を拡大することに躊躇する姿勢を示していますが、(援護法は軍人恩給復活に伴う暫定措置であり、援護法、恩給法の第1条には、公務上の負傷、疾病…の言葉が使われていることによる)、「戦犯というものに対しまして、われわれ日本人としての見方と、それから勝った国が負けた国に対して、かつ個人的にその責任を追求して戦犯というものをこしらえました動機、その間には私は非常に差があると思います」とか「拘禁中の戦犯者の諸君が国家の戦争のための犠牲者であるという、ただいまの御質疑の御趣旨はよくわかります」といった政府側の発言や、議員修正がなされる以前の政府案でも、戦争裁判受刑者(戦犯)の中には恩給法や援護法の対象になっていた者があることからもわかるように、政府は決してこれらの方々に対する援護について消極的であった(政府はいわゆる戦犯者というものを犯罪者と見做していたが、世論に屈服してその措置を講じた)わけではなく、恩給停止の経緯や国際関係への配慮から、恩給法、援護法に戦争裁判受刑者といった言葉を明記することを出来得る限り避けたかったものと考えられます(つまり戦争裁判受刑者というような言葉を用いないと、これらの方々全てを援護の対象とすることができなかった)。
この援護法の改正を契機として翌年から恩給法が逐次改正【注O参照】され、いわゆる戦犯者に対する援護措置が充実されていきますが、このような経緯を見てみると政府は一貫していわゆる戦犯を“戦犯”なるが故に国内において特別な扱いをしてきたことはなく、ましてや“A級戦犯”をはじめ戦争裁判で刑死・獄死した者をも公務による死亡者(公文書では法務関係死亡者“法務死”という)として、一般戦没者と同様に扱ってきた事実がわかります。
特に恩給法では同法第九条で「死刑又ハ無期若ハ3年ヲ越ユル懲役若ハ禁錮ノ刑」に処せられた者はその恩給権が消滅するにも拘わらず、いわゆるA級をはじめとする“戦犯”には恩給が支給されていましたし、「現在在監中の人たちには国内法は適用しないと政府はたびたび声明しておられるし、この前の選挙において現にその人たちの清き1票がみな行使されておるのであります
。」(昭和28年内閣委員会・辻政信委員)と、禁錮以上の刑に処せられその執行を終るまでの者は剥奪されることになっている選挙権が与えられていたことからも、政府をはじめ国民の“戦犯”に対する態度が一層はっきりします。
終戦直後の混乱期、日々の生活の向上と戦争で失った肉親が靖国神社に祀られることを熱望する遺族にとって、援護法・恩給法の整備はまさしく経済的保障であり、靖国神社合祀は遺族に対する精神的保障であったといえましょう
。
当時、神道指令により宗教法人とされ、200万に及ぶ戦没者を独自で調査・合祀することが物理的に不可能であった靖国神社に対し、国民世論に裏付けられて「憲法の政教分離の見地から、国が直接合祀に対して援助するわけにいかないことは、はなはだ遺憾
。しかし恩給法・援護法の整備によって通知される際に、何らか靖国神社の合祀と結びつけてこれを行うという便宜的方法もあるのではないかと考える
。」と政府が示した積極姿勢が、やがて政府の靖国神社合祀事務協力につながったことを合わせて考えると、戦犯合祀は靖国神社が独断で行なったものとはいえず、そこには国民や政府の戦犯に対する、同じ日本人としての感情が反映されていたように思われます。
靖国神社が“援護法に基づいて戦犯を合祀してきた”ことについて「援護法は遺族を対象とした社会保障であって、この法律により戦犯と一般戦没者が同等に扱われるようになったと考えるのはおかしい」との反論もありますが、それこそ法律改正の経緯や当時の国民感情を全く無視した意見といわざるを得ません。
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七、昭和殉難者の靖国神社合祀
靖国神社は終戦まで陸軍省、海軍省の共同管轄下にあり、祭神の選定も両省が行なっていましたが、敗戦により両省が廃止されてからは、厚生省が戦争による「公務死」と認定したものを、神社において合祀することになりました
。もちろん新たな祭神合祀にあたっての決定権は、昭和21年2月2日の「宗教法人令改正」【注P参照】によって一宗教法人
となった靖国神社にあるわけですが、神社創建以来「戦時または事変において戦死・戦傷死・戦病死もしくは公務殉職した軍人・軍属およびこれに準ずる者」という合祀の選考基準に変わりはなく、戦争による公務死に該当するか否かは靖国神社当局が勝手に判定し得るところではありませんので、国の認定に従うのは当然の手続きだといえるでしょう。
そこでいわゆる“A級戦犯”がどのような経緯で靖国神社に合祀されたかは次の通りです。
昭和27年4月28日、サンフランシスコ対日平和条約が発効、その直後の30日の国会で「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が成立し、戦後はじめて国による遺族援護が行なわれるようになり、翌28年8月1日には同法の1部が改正され戦争裁判による死亡者も適用対象者として認められ、遺族に対しても一般戦没者と同じように遺族年金および弔慰金が支給されることになりました。
また恩給についても、昭和29年6月30日の恩給法改正によって、拘禁中獄死または刑死した者の遺族は一般戦没者の遺族と同じ処遇を受けることとなり、戦争裁判受刑者本人に対する恩給も昭和30年の同法改正によって、拘禁期間を在職期間に通算するとともに、拘禁中の負傷または疾病を在職中の負傷または疾病とみなして同じように支給されるようになりました。
このような一連の法改正により、戦争裁判による死亡者や拘禁中の傷病者は、一般の戦没者、戦傷病者と同様の取り扱いを受けることとなったのです
。つまり、まず国がA級たるとB・C級たるとを問わず戦争裁判による死亡者を一般戦没者と同様の戦争による公務死と認定し、これを「法務死」と称して国内法上の犯罪と区別してきたのは、前章でも触れた通りです
。
さらに昭和31年4月19日、厚生省引揚援護局は「靖国神社合祀事務協力について」と題する通知を同局長名で発し、都道府県に対し合祀事務の協力を要請しました。この通知に基づき、

という方式で合祀事務への協力が進められ、昭和31年から昭和46年まで15年間にわたって続けられたのです。
こうした合祀事務協力のもと、靖国神社は、厚生省の引揚援護局より送付された通知「祭神名票」により新しい祭神の合祀を行なったのですが、時と共にその範囲も拡大し、軍の要請によって戦闘に参加した満州開拓団、義勇軍などから、国家総動員法に基づく徴用者、国民義勇隊員、徴用された船舶の船員なども含まれるようになり、戦争裁判による確定判決を受けて死亡した者(いわゆる“戦犯”)も昭和34年の春季合祀祭において一般戦没者と共に初めて合祀されました。
その後、数次にわたり戦犯の合祀が進み、昭和41年には、いわゆる“A級戦犯”の祭神名票が引揚援護局から送付されましたが、これを受けて靖国神社は崇敬者総代会において、“A級戦犯”合祀を了承しました
。しかし、当時国会において「靖国神社法案」(昭和44年から審議されていましたが昭和49年廃案
。)が審議されていたなどの種々の事情があって考慮され、昭和53年、再度の崇敬者総代会の了承を得て同年の秋季合祀祭においていわゆる“A級戦犯”は昭和殉難者として合祀されたのです。
以上がいわゆる"A級戦犯"合祀に至る経緯ですが、靖国神社当局は、「神社は従来から自ら発言し、政治問題の渦中に巻き込まれぬ立場を堅持している」(社報「靖国」昭和61年2月1日号)と述べているように、「不言」の方針により、新聞、雑誌等あらゆるマスコミに対し見解を発表したり、質問に答え対談に応ずるようなことはしておりません
。
ただ「昭和殉難者靖国神社合祀の根拠」(昭和61年3月1日号)と題し、合祀の根拠を宮司名にて社報「靖国」に掲載しており、それによれば、「国家機関、地方自治体、公の機関では戦犯刑死者と言ふ語を用ゐず、すべて法務死亡者、法務関係遺族と言ふ用語を使用してゐる」ことを公文通知書の史料により紹介した上で「昭和27年4月28日、講和条約発効翌年の第16国会の議決により援護法が改正され、連合国側が定めたA・B・C級等の区分には全く関係なく、法務関係死亡者、当神社の呼称する昭和殉難者とその御遺族が、一様に戦没者、戦没御遺族と全く同様の処遇を国家から受けられる事になったと言ふ事実を篤と認識されたい
。
援護の実施は、さかのぼって28年4月1日からと決った。従って所謂A・B・C級戦犯刑死の方々は、その時点を以て法的に復権され、これを受けて、靖国神社は当然のことながら合祀申し上げねばならぬ責務を負ぶことになった
。」と述べております
。このように靖国神社の立場は至極当然の事であり、今までの考察でもわかるようにそれに関わる手続においても何ら問題はなく、いわゆる“A級戦犯”合祀は妥当な措置だといえるでしょう。
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