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■砂川・空知太神社訴訟最高裁判決について
(神政連レポート『意』172号掲載記事)
百地章・日本大学教授
最高裁大法廷は、去る一月二十日、北海道砂川市の市有地上に存在する(存在した)二つの神社(富平神社と空知太神社)をめぐる訴訟について、合憲と違憲の判決を下した。
このうち、違憲とされたのは空知太神社訴訟である。この訴訟は、キリスト教徒の原告らが、市有地に建てられた町内会館の中に神社(祠)が存在しているのは政教分離違反であるにもかかわらず、砂川市長が市有地上からの神社の撤去と土地の明け渡しを請求することを怠っていることは違法であるとの確認を求めたものである。この訴えにつき、最高裁は一、二審と同様、砂川市と神社との関わりは相当限度を超えており、憲法八九条の禁止する宗教団体への便益の供与にあたるとして、憲法違反の判決を下した。
判決は、町内会館の一角に「神社のほこら」が設置されており、建物の外壁には「神社」の表示が設けられ、「鳥居」が設置されていることから、これらは「神道の宗教施設」に当り、祭事等の諸行事も宗教行事といえること、また諸行事を行っているのは町内会とは別の「氏子集団」であることから、砂川市が「特定の宗教」に対して特別の便益を提供し、これを援助していると評価されてもやむをえない。それゆえ、これは憲法八九条の禁止する「宗教団体に対する公の財産の利用提供」に当るから、憲法違反であるとした。
他方、判決は、原告らの主張するように、直ちに神社施設を市有地上から撤去させることは「住民らによる宗教的活動」を著しく困難にし、「氏子集団の構成員の信教の自由」に重大な不利益を及ぼすことから、違憲性を解消する他の手段が存在しないかどうか審理を尽くさせる必要があるとして、原審(札幌高裁)に差し戻した。
しかし、この最高裁判決は、これまで五十年以上にわたり特段問題視されることなく認められてきた公有地上の祠を、突然、憲法違反とすることによって無用な混乱をひき起こすだけの、極めて疑問の多いものである。全国各地には同様のケースが数多く見られ、神社や鳥居さらに地蔵像など数千件に及ぶのではないかとの報道もみられる。しかも公有地提供の経緯をたどると江戸時代以前にまでさかのぼる例もある。それを、戦後制定された憲法に照らして一切否定してしまおうというのだから、乱暴すぎる。
であればこそ、従来、違憲判決となるとこれを歓迎し、センセーショナルに報道する傾向の強かった新聞各紙も、今回の判決に対しては、比較的冷静ではなかったかと思う。判決の前にかなり丁寧な取材を受けた朝日、読売、東京、日経等の記者達も、「もし違憲判決が出たら全国的に大変な混乱が生じそうですね」と率直な感想をもらしていた。事実、判決後、全国の市町村では実態調査が始まり、困っている自治体も少なくないという。さらに、TBSテレビの「噂の!東京マガジン」(三月二十一日放映)でも、この問題を取り上げ、鎌倉市内で生じている様々な混乱を紹介し、この判決に対して疑義を呈していた。
次に、具体的問題点についていえば、本判決は愛媛玉串料判決と同様、初めに違憲の結論ありきの矛盾したものであって、政教分離解釈上も極めて疑問が多い。
判決は、憲法の政教分離について、冒頭、「国又は地方公共団体が宗教との一切の関係をもつことが許されないというものではなく、憲法八九条も、公の財産の利用提供等における宗教とのかかわり合いが、わが国の社会的、文化的諸条件に照らし、…相当とされる限度を超えるものと認められる場合に、これを許さないとするものと解される」と述べている。これは津地鎮祭訴訟最高裁判決と同趣旨であり、国家と宗教のかかわり合いが「相当とされる限度を超える場合」には許されないという言い方からしても、厳格な分離ではなく、限定分離の立場に立つことは明らかである。しかも「相当とされる限度」を超えているかどうか判断する際には、「当該宗教施設の性格、当該土地が無償で当該施設の敷地としての用に供されるに至った経緯、当該無償提供の態様、これらに対する一般人の評価等、諸般の事情を考慮し、社会通念に照らして総合的に判断すべき」と言う。
にもかかわらず、判決は問題の施設が「神社のほこら」であり、「神社」の表示があり、「鳥居」が存在すること、諸行事が「神道の方式」に則って行われていること等、形式的・外形的側面からのみ評価し、「社会通念」など全く無視して憲法違反と断定してしまった。
問題とされた神社は、「神社」とは名ばかりの小さな「祠」で、普段は公民館内の棚の中に、扉を閉めて納められており、年に三回、正月と春秋の祭りの際に扉が開かれるだけである。しかも、宗教法人格を有する神社ではなく、実体は明治時代に設立され、仏教などさまざまな宗教を信仰している地域の人々によって維持、管理されてきた伝統的、習俗的施設にとどまり、開拓時代から住民たちの心のよりどころとされてきたものである。その上、この祠はもともと公有地上にあったもので、砂川町(当時)の都合により一時に民間に移されたものの、再び公有地上に戻されただけだから、その実態は「原状回復」にすぎない。それゆえ、土地の無償貸与の目的は、宗教的意義を持たないし、その効果も「特定の宗教」に対する援助とは考えられない。
ところが、判決はこれらの「当該宗教施設の性格」や無償貸与に至る「経緯」、それに「一般人の評価」等をほとんど考慮することなく、憲法違反と断定してしまった。
また、本判決は、何のために政教分離が定められているのか、その目的も考えないまま、憲法の条文に引き摺られ、公有地上に宗教施設が存在するというだけで憲法違反であると、即断してしまった。そしてその後で、慌てて「直ちに神社施設を市有地上から撤去させることは、「住民らによる宗教的活動」を著しく困難にし、「氏子集団の構成員の信教の自由」に重大な不利益を及ぼすから、違憲性を解消する他の手段が存在しないかどうか更に審理を尽くさせる必要があるとの理由で、原審に差し戻したわけである。
しかしながら、政教分離はあくまで「信教の自由」を保障するための「手段」であって、「目的」ではない。それゆえ、問題の「祠」が政教分離違反かどうかを判断するに当たって、最高裁は、まず住民たちの神社に対する思いや信仰に配慮し、その上で、社会通念上、それが政教分離違反とまでいえるのかを慎重に判断すべきであった。ところが、最高裁は憲法の政教分離規定を杓子定規に適用し、その後で住民たちの「信教の自由」にも配慮せよなどというのだから、本末転倒も甚だしい。しかも、そのためにどのような方法があるかは、原審で考えよというのだから、あまりにも無責任といえよう。
報道によれば、被告砂川市は鳥居の近くに祠を移し、その敷地を有償で貸与する方針という。しかし、原告の一人は、有償で貸せばよいというものではなく、あくまで市有地からの撤去を求め裁判を続けると語っている(朝日新聞、四月二十一日)。後先を考えない最高裁の判決が、紛争を解決するどころか、一層混乱に拍車を掛け、その影響が全国に波及していることについて、最高裁に猛省を促したいと思う。
■正教問題を考える
神社と「宗教」の関係について
〜「神社非宗教」をめぐる断想〜
(神政連レポート『意』172号掲載記事)
齊藤智朗・國學院大學准教授
津地鎮祭訴訟や愛媛県玉串料訴訟に関する最高裁判決の理由でもその用語が取り上げられた、いわゆる「国家神道」をめぐっては、戦前から終戦まで、国内ではこの用語自体はほとんど使用されておらず、いわば「神道指令」によって戦後に一般化したものであること、さらにはその「神道指令」における「国家神道」の定義が曖昧で矛盾を含んでいる上、それまでの神社行政の範囲を超えた内容も盛り込まれたものであったことなどにより、戦後において多種多様な見方がなされ、評価も様々なものとなった。それゆえ葦津珍彦先生が『国家神道とは何だったのか』(神社新報社刊、昭和六十二年・平成十八年新版)の冒頭で、「国家神道」の概念について、「各人各様に、ほしいままに乱用したのでは、明白にしてロジカルな理論も、史観史論も成立するはずがなく、対立者との間の理論的コミュニケイションもできない」と指摘されたように、その認識の多様さから、今日もいまだなお、全体として発展的な議論ができるまでには至っていないように感じられる。
このように個々人により見方や評価が様々な「国家神道」だが、それでも共通した認識の一つとしてあるのが、「国家神道」は「神社は宗教にあらず」という「神社非宗教」に基づいて成立したことである。つまり、神社(神社神道)は仏教やキリスト教などの「宗教」ではないとの位置づけを前提として「国家神道」が成立したのであり、逆を言えば、神社が「宗教にあらず」との位置づけがなければ、「国家神道」もまた成立し得なかったことになる。
もっとも戦後においては、このような「神社非宗教」に対しても、神社は明らかに「宗教」であり、戦前の「非宗教」としての位置づけは、戦前の政府による「たてまえ」であったとする意見がある。また、戦前の政治家や官僚の中に、神社には西洋でいう「宗教」的な性質が含まれていること、あるいは神社は国民の「宗教」的な信仰の対象であることを認めていた形跡が窺える資料や著作なども散見される。ただ理念的に言えば、そもそも「神社非宗教」という言葉自体に、神社が「宗教」か否かという前提が含まれており、神社に「宗教」性がまったく認められなければ、神社の宗教・非宗教をめぐる議論も起こらず、「神社非宗教」の概念そのものが生じ得なかったであろう。
近代日本において「神社非宗教」という考え方が生じた背景には、西洋諸国との交流の開始にともない、西洋の言葉や思想が流入し、その中に従来の日本にはなかった「宗教」religionの概念が入ってきたことがあった。前近代までは神道、儒教、仏教などは、「教え」や「道」として認識されていたが、「宗教」の概念の流入により、神社は「宗教」か否かが意識されはじめ、さらに近代的な政教分離制度について検討されだすと、神社は「宗教」なのか否かが問題視されるようになっていった。そして、結果的には宗教的な神道教派とは分けられた「非宗教」として神社が位置づけられ、国家の政策・制度の上でも反映されていくことになった。このように、「神社非宗教」は、西洋の「宗教」概念や、近代西洋の政教分離との交錯の中から生じたものであり、大局から見れば、西洋諸国によるアジア進出という危機的な状況の中で、西洋諸国に伍する近代国家となることを目指し、それゆえにまた西洋諸国にならった近代化を進めることしか選択の道がなかった当時の日本において、従来の伝統的な文化や制度・風習が、近代的な西洋の文物との兼ね合いから改編されていく中で生じた、いわば「伝統」と「近代」とのジレンマの一つの表れであったとも見ることができる。
実際に、「神社非宗教」と言っても、当時からその意味内容は個々人の思想や立場により大きく異なった。前掲の『国家神道とは何だったのか』では、明治期の神道人らが唱えた「神社非宗教」が、「神道をもって一般宗教とは次元を異にする一つの優位を欲する思想」であった一方、仏教者が説いた「神社非宗教」は、「国家の儀礼礼典に関与する神官には、一切の宗教的言論教導、宗教行為(葬儀執行等)を禁ぜよ」とするものであり、両者の間で「神社非宗教」をめぐる内容の大きな違いが指摘されるとともに、さらに政治家・官僚における「神社非宗教」なども含めた細かな類型化が提起されている。筆者も、明治十年代から二十年代初頭における、「神社非宗教」に基づく「祭教分離(神社祭祀と宗教の分離)」をめぐる神道人や仏教者、政治家・官僚が説いた様々な論を検証したことがあるが、そこでも、皆が「神社非宗教」を唱えているものの、その根本にある神社観をめぐっては、個々の間で大きな隔たりがあることを指摘した(「帝国憲法成立期の祭教分離論」、阪本是丸編『国家神道再考
―祭政一致国家の形成と展開―』、弘文堂刊、平成十八年)。つまり、表面上は「神社非宗教」と共通していても、根本的には異なる思想・理論であったことがわかるのである。
ただ、ここで翻って見ると、思想や立場の異なる者たちがなぜ一様に「神社非宗教」を唱えたのだろうか。それは筆者が検証した「祭教分離」論においても同様で、思想・立場が真逆であっても、皆一様に神社は「非宗教」であるゆえ、宗教である仏教とは行政の管轄を区分すべきことを主張していたのである。
このような「神社非宗教」が一様に唱えられた理由として、「神社非宗教」が生じる背景となった「宗教」概念との交錯において、当時の日本人の間では神社を「宗教」であると断定することが憚られたのではないだろうか。例えば、大日本帝国憲法や教育勅語の中心的起草者である井上毅は、神社に「宗教」性が含まれることを認識しつつも、「神社は宗教にあらず」として、その「非宗教」化を唱えた。つまり、井上にとって神社は「宗教ではない」以上に、「宗教であってはならない」ものだったのであり、それは神社が伝統的に皇室と密接不離の関係にあり、また日本文化の基礎となる精神だからであった。この井上の認識に表されるように、記紀をはじめ古典に示される悠久の歴史があり、皇室・国家と分離できない関係にあり、日常的風習としての民族の礼式であり、庶民の生活文化の基礎をなしている神社を、いかにそこに「宗教」性が見出せたにせよ、「宗教」religionとして完全に割り切ることができなかったのである。このように、「神社非宗教」については、その伝統的なあり方と、西洋の概念としての「宗教」religionとの間で葛藤が生じ、近代を通じて神社の「宗教」性と「非宗教」性とをめぐり錯綜され続けたのである。
しかし、多文化時代の今日において、西洋学術的な観点からは、非西洋諸国の文化は認識できないことが唱えられるようになり、特に「宗教」に関しては、西洋的な「宗教」religionの概念をもって、非西洋社会を真に理解することはできないことが提起されている。こうした中、日本においても、神社に関して、「宗教」という西洋の概念からではなく、歴史や文化・伝統に基づいて、改めて見つめ直すことが必要になってきていると言えよう。また、このように見つめ直すことで、今日の、またこれからの神社と国家の関係においても、歴史や文化・伝統に基づいたあるべき姿がより鮮明になってくるものと考えられる。
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